【サッカーから学ぶ組織開発・人材開発:松村卓朗】:第28回 オシムが解いた戦争の呪縛

世界中でW杯の予選が開かれていて、続々とブラジルW杯出場国が決まりつつある。

わが日本は早々と出場を決めてしまったので、私の関心は既にヨーロッパなどの予選情勢に移っている。その中でも、個人的にはぜひとも出場を叶えてもらいたいと思う国がある。ボスニアだ。

かつては、「ユーゴスラビア」といっていた国で、オシム(元日本代表監督)が率いて、ストイコビッチ(現名古屋グランパス監督)やサビチェビッチなどを擁していた90年のW杯では、そのスペクタクルなサッカーで世界中のサッカーファンを魅了した。そして、続く92年の欧州選手権では、優勝候補の筆頭にまで挙げられた国だ。しかし、大会直前に内戦が始まり、制裁を受けて大会出場権をはく奪されてしまった。長らく、サッカーの国際試合から遠ざけられていたばかりか、国はいくつかに分断されてしまった。ボスニア、クロアチア、スロベニアと、紛争によって解体された国の1つ1つがW杯出場国候補になっているのだから、解体されていなければどれほど強い国だったのかと、今さらながらサッカーファンとしては残念で仕方ない。

ボスニアのW杯出場を私が待ち望んでいる理由は、そのサッカーの質だけが理由ではない。実は、最近まで、またサッカーの国際社会から締め出しを食らっており、W杯出場どころか、あらゆる国際試合への出場権がはく奪され、世界で孤立していたのだ。その窮地を救ったのが、4年前まで日本代表を監督として率いていたオシムだという話を聞いた。オシムは、脳梗塞で倒れ生死の淵をさまよったために日本代表監督の職を辞し、ボスニアに帰国していた。リハビリに勤しみ、余生をのんびりと楽しんでいると思っていたので、まさか、その体で、祖国のためにこんな激務に献身していたのかと知って、本当に涙が出て仕方がなかった。

まずは、ボスニアサッカーが世界から孤立させられていた理由を説明しよう。

ボスニアには、昨年まで3人のサッカー協会会長がいた。FIFA(国際サッカー連盟)に加盟している207のどの国のサッカー協会も、もちろん、会長は1人だ。
現在のボスニアの政治システムは、民族同士が互いに不満を抱えないように順番に権力を回していく輪番制がとられるようになっている。国家元首は、3つの各民族(セルビア、クロアチア、ムスリム)の代表3名で構成した大統領評議会の議長で、それを8か月ごとに交代で務めることになっている。3民族が分離独立を巡って激しく対立して、殺戮を繰り返した内戦の傷に起因し、その傷を癒すために考えられた仕組みだ。

サッカー協会も、この制度を踏襲していた。3人が代表のローテーションを繰り返していた。これによって、無駄や腐敗が生みだされていた。会長が代わる度に協会が掲げる方針の継続性が失われる。そして、ただでさえ財政が厳しい中で、投票権は1票しかないにも関わらず、FIFAやUEFA(ヨーロッパサッカー連盟)の会議には、3民族の代表が全員出かけていくという体制をとっていた。通訳まで帯同させるので、莫大な費用がかかった。この制度は、相互不信の前提の上で成り立っているものなので、国を1つにするどころか、それぞれの民族の利権を助長させていた。

FIFAは、1国家1競技団体1会長の原則を元に、「2011年3月末までにボスニアが集団会長制度を辞めない限り、加盟資格停止処分を下し、国際大会への出場を禁止する」という通達を出した。5か月の猶予があったにも関わらず、理事会は1つにまとまることができず、国際試合に出場できなくなった。A代表はユーロ予選の最中にあったにもかかわらず途中で権利をはく奪され、ユースもジュニアも女子も国際試合に出場できなくなり、審判ですら外国の試合で笛が吹けなくなったという。

絶望的な状況の中、立ち上がったのがオシムだ。「正常化委員会」の委員長への就任依頼に、「断るという選択肢はなかった」と語っている。麻痺が残る病身で70歳を超える老体でありながら、祖国の苦境をただ見ているわけにはいかなかったのだろう。
しかし、憎悪の連鎖でバラバラになっているボスニアをまとめるのは、並大抵のミッションではなかったはずだ。内戦後、小学校ではクロアチア人とムスリム人が同じ学校に通いながら、入り口も教室も別に隔離され、異なる歴史教育を受けていると聞く。自分達こそが被害者であるとの記憶が刷り込まれ、憎しみを伝播させている。

オシムは、正常化委員会のメンバーを前にして、次のように語ったという。「我々はこれから重要な試合に立ち向かう。難しい相手だ。その試合に勝つためにはこのメンバーは皆、同じ目的を持ってプレイしなくてはならない。勇気を持とう。」メンバー達が奮い立ち、オシムのチームが起動した。
オシムは、説得が必要な人達を訪ねていって、行く先々で熱弁を振るった。「このままではボスニアの全選手がその地位を失ってしまいます。自分たちの持つ不信感のために集団会長制に拘るのは意味がありません。これまで信頼できなかった相手にもチャンスを与えよう、人間としてお互いを信じようではありませんか。」と提唱していった。

頑なになっている理事たちの心を開かせていったのは、オシムの献身と情熱、それに加え、ユーモアだったという。
ある県の協会で、オシムに同行したハジベギッチ氏が、熱心に説得していた。「あなた方は、こども達のことを考えていますか?資格停止のままでは選手として夢が持てない。若い選手へ思いを馳せれば答えは既に出ているはずだ。」
主張は全くもって正論ではある。しかし、トラウマを持つ人間をなじる強い口調を前に、険悪な空気が漂い始めた。すかさず、オシムは次のように言ったという。「お前はPKが上手くなってから発言しよう。」

1990年W杯イタリア大会での準々決勝アルゼンチン戦を知らない人はいない。(日本人の私ですら覚えている。)ハジベギッチが止められてユーゴスラビアは負けたのだ。爆笑となって雰囲気は一気に和んだという。
「オシムのジョークには深い哲学とメッセージがあった。彼のユーモアは鉄の扉さえ開かせた」と、後に初代統一会長になったベキッチは語っている。

別のある県の協会で、「ここはスルプスカなので、板書やメモは“キリル文字”でやるべきではないか。」という発言があった。クロアチア人とムスリム人がラテン文字を使用するのに対し、セルビア人はキリル文字を使う。“我々のアイデンティティを軽視するなら協力はしない”という脅しだったわけで、場の空気は凍りついたという。
そこでもオシムは表情一つ変えずに、次のように言ったという。「では、“発言”もキリル文字でやりましょうか。」一同は爆笑になったという。

昨年末、ボスニアサッカー協会の総会で、規約改定の議案が満場一致で可決された。1人の協会会長が誕生した。これによって、FIFAは、ボスニアの資格停止処分を解除した。

国連もEUでもできなかったことをオシムは成就させた。疑心暗鬼だった共同体を、ついに1つにまとめあげたのだ。

こんな風に、オシムのストーリーを知ってからは、是非ともボスニアにW杯出場を叶えてもらいたいと、応援するようになった。そして日本と対戦する日を心待ちにしている。

(参考:Number10月3日号 「オシム21年目の再戦」木村元彦)