【サッカーから学ぶ組織開発・人材開発:松村卓朗】:第18回サッカーと政治の関わり~本田選手の発言から考える~

本田圭祐選手のブログが、ちょっとした話題になった。サッカー選手が政治、特に今取り沙汰されている問題に言及したからだ。

ロンドンオリンピックの3位決定戦で日本を下した直後に、韓国代表のMF朴鍾佑(パク・ジョンウ)選手が、ピッチ上で竹島(韓国名・独島)領有を主張するメッセージを掲げた。オリンピック憲章では、競技会場などでの政治的宣伝活動は一切認められておらず、メダル剥奪の可能性も含めた措置が検討されている。

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海外に出たら、日本は本当にいい国だとあらためて思う。モノのクオリティー、サービス業、すべてにおいてディテールにこだわっている。ここが何につけてもアバウトな外国とは違う。

これはオレの価値観が日本人寄りだから、という理由ではないと思う。外国人だって日本のサービスを受けたら絶対にいい思いをするはず。その点で、日本は世界トップだと認識している。外国に出てから、日本の良さを感じるようになった。

それと同時に思うのは 「これを築いたのは誰なんだ?」ということ。オレたちではない。こんな裕福な今日の日本があるのは、先代の人たちの頑張りのおかげだと思っている。オレたちは、彼らが頑張って汗水たらして残していってくれたもののおかげで生活できていると思う。

それが今、いろんな面でまさしく危機を迎えている。オレが言うまでもなく、いろんな人が「日本はそのうち破綻する」と言うのが聞こえてくる。「なんでそうなったのか?」ということを考えないと。今のオレたちは何も築いていない。先人の財産を使ってきただけ。感謝して、今からもう一度、頑張らないといけないんじゃないか。

それなのに浪費した揚げ句、責任のなすり合いが、どの場面どの分野でも繰り広げられているように見える。海外から見ると、より一層、強くそう感じる 。

なんでここまで言うのか? オレは愛国心というのか、そういう気持ちが強い。例えば、いい悪いは別にして、この間のオリンピックの竹島の問題がある。韓国の選手が試合後にボードを持った。 いい悪いは別として客観的に見たら、彼は韓国を愛しているんだな、と思った。オレは日本を愛している。もしかしたら同じ状況になれば、同じように行動したかもしれない。それはその場になってみないとわからないことだけど。

政治といえば、日本に帰った時、国会中継をよく見る。見ていると、話がまったく進まない。「まぁ~、進まない」という感じで「一体誰が進めるの?」そう思って見ていた。リーダーがいない。

そろそろオレたちの世代が、本物が評価される時代をちゃんと作り出すべきだと思う。本物の定義・哲学を若い人たちがそれぞれ持っていないといけないと思う。本物を選ぶその物差しを、ちゃんと形成していかなければいけないんじゃないか。

オレがいう本物とは政治家のことであったりする。彼らは税金から給料を得ているわけだし、本物であるべきだと思う。

最大の問題は支持する側にあると思う。我々はイベントなどで騒ぐのはいいけど、楽しい空気を亨受できる平和というものをはき違えてはいけない。オレの価値観では、平和というものは自分たちの手でつかみ取るもの。本物とは何かということに対してもっと真剣に考え、議論する必要があるんじゃないか。

オレが政治についてしゃべったら「本田、スポーツ選手のくせに政治を語るな」と、たたかれるはず。オレも日本国民。政治のことを語る資格があるはず。日本をこうしたい、と思うことをしゃべる。それが真剣な発言だったら、足を引っ張るんじゃなく、議論する環境をみんなで前を向いて作っていくべきなんじゃないか。

これがオレだから。批判されても構わない。そうやって生きてきた。それが本質だと思っている。誰にでも意見を言う権利があるということを、伝えておきたい。

「サッカー選手で、日本代表の本田だから言える」のではない。オレたちの世代も、みんなどんどん意見を言ってほしい。そして、みんなが聞く耳を持ってほしい。オレは今、そう言いたい。
(出所:本田圭祐ブログ、日刊スポーツ新聞(9月6日)を参考に抜粋)

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残念ながら、かつてサッカーは戦争を引き起こしたことがある。1969年に中米のエルサルバドルとホンジュラスの間で実際に勃発した戦争で、サッカー戦争と言われている。1970年のメキシコ大会の出場権をかけた中米地区予選で、エルサルバドルとホンジュラス双方が予選決勝に駒を進んだ。ホーム&アウエイで行われた試合は緊張感に満ち、前日投宿した選手団の安眠を互いに妨げたり、スタジアムでは乱闘を含む騒ぎも起こったりで、出場権が決まった直後に戦争に発展した。(サッカー戦争というネーミングのみが一人歩きし、あたかもサッカー試合の勝ち負けのみが戦争の原因のごとく言われ、「愚かな戦争」の代名詞のごとくいわれている。しかし、既に両国関係は緊迫化していて、開戦はサッカーの試合結果に関わらず行われたと見られている。)

「スポーツと政治は別」という人は多い。確かに、オリンピック憲章を持ち出すまでもなく、スポーツが政治に翻弄されることも、政治に利用することも利用されることも、私はあってはならないと思う。

既に私達は、スポーツ選手やサッカー選手の悲しい顔をこれまでたくさん見てきた。モスクワ五輪のボイコットでは、柔道の山下選手らの無念の涙は今なお印象深い。92年の国連制裁に伴いユーゴスラビアがEURO(欧州選手権)92の出場権を剥奪されたときの、ストイコビッチ選手の怒りと落胆の姿は、いまだに脳裏に焼きついている。

しかし、「スポーツと政治は別」という言葉を、厄介事を回避するために使っている、あるいは思考停止に陥ったまま使っていることも多いのではないか。それは改めねばならない。本田選手のメッセージから読み取れるのも、“スポーツと政治は別、選手は政治を語るべきでない”と考えてしまうのではなく、“平和はつかみとるもので、平和のために果たせる役割は小さくないスポーツ選手が発言し議論しなければならない”、“スポーツ選手も国づくりに積極的に貢献しなければいけない”といった、これまでサッカー選手からは聞こえてこなかった主張だ。

そう言えば、ストイコビッチが選手だった頃、得点を挙げた直後Tシャツのメッセージを露わにしたことがあった。そこには、「NATO STOP STRIKES!」(NATOは空爆を止めろ!)と書いてあった。ユーゴスラビアに対するNATO軍の空爆が開始された直後の試合だった。

このパフォーマンスを受けた川淵チェアマン(当時)は、「ピッチに政治を持ち込むな」として、Jリーグの全チームに対し喪章を含むあらゆる政治的パフォーマンスを禁止する通達を出した。しかし今にして思えば、これこそ厄介事を回避するため、あるいは思考停止の判断だったような気がしてならない。

ストイコビッチは、愛する祖国と、祖国に住む愛する人達を守りたかっただけのはずだ。そして、世界を平和に導きたいという願いだけだったはずだ。

調べてみると、後に彼は、『ピッチに政治を持ち込んだわけでは決してない。ユーゴスラビアではセルビア人、アルバニア人、ボスニア人に関係なく空爆の危機に晒されていること、また空爆は民族間の憎悪を煽るだけで問題の解決にならないどころかそれを悪化させるだけだということを、知ってもらいたかっただけだ』と語っている。(参考:「ドラガン・ストイコビッチ完全読本 」木村元彦)

ストイコビッチは、また、『民族融和に真に必要なものは「架け橋」、つまり人々の交流だ。交流を生むためにはきっかけが必要であり、サッカーは大きな役割を果たしていると語。大会となれば地球の裏側からでも何千というサポーターが駆けつける。サッカーの魔法は、瞬く間に国境や大陸を超える力を持っていて、この魔法を民族と民族の壁を消すために使えないものだろうかといつも考える』と語っている。

もともとオリンピックをはじめ、サッカーのW杯などのスポーツの祭典は、世界を平和に導くべく生まれたもののはずだ。そして、自国を愛し、身近にいる人を幸せにしたいと願う心を養うことと、同時に自分達と同じように貴い国々が世界に存在することを知り、各国を尊重する心を育むことで、世界を平和に導くベースを作ろうとする試みのはずだ。

私が大人になってサッカーをますます好きになった理由は、どんな国のどんな異文化の人たちであっても交流を促進してくれるからだ。これまでどれだけ多くの人たちとサッカーの話をしてきただろう。サッカーは、世界の共通の言語、誰もが知っている言葉、皆が愛するテーマだ。また、私が話してきた各国のサポーターは、皆、自国のサッカーを愛しているし、自国のサッカーを誇りに思っていた。だからこそ、交流が進んだ。

朴鍾佑(パク・ジョンウ)選手の行動には、「スポーツの場に政治を持ち込んではならないだろう!」と私も反射的に反応した。しかし、スポーツと政治は別だといって、臭いものに蓋をするようでいてはならない。スポーツ選手も政治に無関係でいてもいけない。本田選手のブログは、“サッカーに政治を持ち込まない”、という意味を考えるきっかけを与えてくれた。

サッカーは、国を1つにすることもできるし、国と国の交流を深めることもできる。サッカーは戦争を引き起こす引き金にもなるし、戦争の惨状を知るきっかけになることもある。だから、政治と別でいいわけがない。サッカー選手も、政治とどう関わるかの質が問われる。

サッカーは、政治とは、ただ、世界を1つに近づける存在としてのみ、関わっていてほしい。