【サッカーから学ぶ組織開発・人材開発:松村卓朗】:第17回オリンピックでの無気力試合~バドミントンの失格ペアとなでしこの違い~ 

この夏は、ロンドンオリンピックでサッカーは男子も女子も大活躍だった。女子は史上初のメダル獲得を成し遂げ、決勝では残念ながら惜敗したがアメリカと全くの互角の勝負を繰り広げ、昨年のW杯での優勝がフロックではなかったことを証明した。男子は44年ぶりにベスト4に残り、メダルはとれなかったものの、これまで日本サッカー界に燦然と輝くメキシコオリンピックの銅メダルに迫る成績を残して幕を閉じた。オリンピックはサッカー以外の競技も目白押しで目が離せないので、観戦の日々はワールドカップ以上に大変なのだが、色んなスポーツの世界一の技を目の当たりにできて、幸せな日々だった。

今回のオリンピックで最も考えさせられた出来事は、前代未聞の「無気力試合」だ。バドミントンの試合で本来メダルを狙えるはずの4ペアが失格になったが、皆さんはご覧になっただろうか。確かにオリンピックを見に行ってこんな試合を見せられた方はたまったもんじゃない。
この無気力試合の余波はバドミントンに留まらず、サッカーにも及んだ。「なでしこが臨んだ予選リーグの3試合目は無気力試合であって、バドミントンでは失格になったのだから、なでしこも許されない」といった論調の批判があがった。
この試合、なでしこジャパンはこれまでの2試合から先発を7人代えて臨んだ。さらに、試合前に佐々木監督は「状況次第では引き分け狙いにすることもありうる」と選手たちに話したという。そして、後半途中から、明らかに点を取りに行かなくなった。
監督の狙いどおり、なでしこジャパンは0-0で引き分け、スウェーデンに首位を譲り、2位となった。監督は、2位狙いの理由として「準々決勝の相手はどこでもよかった。ただ、1位なら1日かかるグラスゴーへの移動、2位ならここカーディフに残って試合ができる。コンディションを考え、後半の途中に引き分けを選んだ」と語っていた。

私の感覚では、バドミントンは黒で、なでしこは白だ。しかし、バドミントンではなぜ許されず、なでしこがやったことはなぜ許されるのかという論拠を明快に説明するのは、決して簡単ではないと思った。ルールというより、モラルの問題だからだ。正直、サッカーでは、引き分け狙いというのは当たり前にありすぎて、今までそれがいいのか悪いのかさえ考えたこともなかった。この機会に、何がバトミントンとサッカーの違いだったのかを、私なりに考察してみたいと思う。

まず、批判の1つに、「全力を出さなかったことは許されない。オリンピック憲章に反する。」というものがあった。
しかし、例えば、短距離走とか競泳の予選では、トップ選手が予選通過できるけど全力は出さないという戦い方をするのは当たり前のように行われている。ボルトには確かに「なぜ全力を出して走ってくれないのか」と不満を抱くことが多いが、見ている側が「そこで流さなければ世界記録が出たのではないか」という期待があるがゆえのことで、全力を出さなかったから失格したなんて聞いたことがない。

次に、「目の前の敵に勝ちにいかなかった。相手へのリスペクトを失している。スポーツの精神に反する。」という批判もあった。
しかし、スポーツの世界では、目の前の試合に勝ちにいかないことは、いくらでもある。
例えば、野球の「敬遠」。メジャーリーガーの松井秀喜選手が星稜高校時代に甲子園で明徳義塾高校と対戦した際、5打席全打席敬遠されて物議を醸した。しかし敬遠もルールで認められており、立派な戦術の一つだ。個別局面での勝負に拘らず、最終的な勝利を目指すのは何も悪くはない。
ちなみに当時は相当バッシングされた明徳義塾高校の監督は、「今でも間違った作戦だったとは思っていない。あの年の星稜は、高校球児の中に1人だけプロがいるようなものだった。」と後に語っている。「野球のルールを犯したわけではない。松井くんと勝負して抑えられるとしたら、インコースの高めしか打ち取る方法はなかったはず。だけど胸元だけを攻めて、デッドボールを当ててケガでもさせてしまった方がよっぽど汚い野球だと思う。野球では『盗塁』とか『刺殺』というように、盗むとか殺すといった不謹慎な言葉が使われている。その中でキレイな言葉といったら『敬遠』ぐらいのもの。人を敬うからこそ敬遠と呼ばれる。」とインタビューで答えている。(参照:「坂の上のサインボード」馬淵史郎)
最終的な勝利のために、1つの試合での勝利という一局面を選ばないことは、私も、何ら問題ないと思う。

全力を出さなかったことも、目の前の敵に勝ちにいかなかったことも、それ自体は失格に値するようなことではない。それに、なでしこと同じなので、バドミントンだけが失格になるというのはどうも解せない。それでは、なでしことバドミントンを決定的に分けたのは何か。それは、私が思うに、バドミントンでは「わざと負けた」ことだ。
なでしこは引き分けようとした。勝とうとして向かってくる相手に引き分けることは、決して簡単ではない。無気力なはずはない。しかし、「わざと負ける」ためには、無気力どころの騒ぎではない。試合そのものが成り立たない状況を招くのだ。
そこまで考えていて、バドミントンとサッカーの本質的な違いに気づいたのだが、サッカーには時間制限があって、バドミントンにはないのだ。つまり、サッカーには存在する引き分けが、バドミントンには存在しないということだ。時間制限がある以上、サッカーでは時間を使うことも戦術になりうる。一方、バドミントンには時間制限がないので引き分けがなく、時間を使っても試合が進まないので、ポイントを自ら失う以外に試合を終わらせる方法がないのだ。1試合1試合必ず勝負を決しなければならないスポーツであり、かつ、ポイントしか勝負を決する方法がないところに、今回の無気力試合を生んだ、バドミントンというスポーツが生まれながらに負っている宿命がある。「わざと負ける」などという、スポーツを冒涜する手段しか、あの場面を潜り抜ける方法がなかったのだ。

サッカーでこれと似たような状況があるとしたら、「互いにオウンゴールをし合う」という状況だろう。こんなことはさすがに見たことも聞いたこともないが、もしそうなったら、ゴールと陣地を反対にしたら、普通の試合になるだけのことなのではないか。ならば、バドミントンの試合でも、審判は、陣地を入れ替えさせればよかったのではないか。相手を打ち負かせた方が望み通り負けるというなら、見ている分には普通の勝負になるし、我ながらクリエイティブな解決策だったのではないかと思うのだが。
しかし、“引き分け”というのは、スポーツを冒涜しないために実によくできたシステム(なのかもしれない)ということを、はじめて知った。

ところで、「“1つの試合で全力を出さねばらない、目の前の敵に勝とうとしなければならない、わざと負けてはならない”等、モラルに反してはだめというなら、予めルールに定めておくべきだ。」という批判もよく耳にした。
しかし、実は予めルール化されているのだ。バドミントンのルールでは、罰則の対象となる項目として、「競技に対する明らかな不正もしくは有害な行動」等に加えて、「勝利のための全力プレーを怠ること」が明文化されているようだ。実際、世界バドミントン連盟が発表した4ペアの失格処分理由は、「勝つために全力を尽くすことを定めた選手憲章に違反した」ということだった。

今回、無気力試合とルールの明文化について考えていたら、昔、学生時代に嵌っていたマネジメントゲームというものを思い出した。擬似的に事業会社を何期か経営して、利益を競い合うゲームだ。2日間の戦いを終えて、優勝した1人の勝者と敗北した我々を前に、講師は全く関係ないが緊張漂う質問を投げかけた。「ところで、皆さん。この2日間寝食をともにして、どの人と一生つきあっていきたいと思ったか。」
残念ながら、ゲームでは勝者となった人は、誰からも手が挙がらなかった。その理由は、期が終わるごとにPLやBSといった決算書を作るのだが、その際に、彼は自身の事業会社の経営に邁進するあまり、決算書作りで四苦八苦している人を誰も助けようとしなかったからだ。講師は続けてこう言った。「このゲームではあなたは優勝した。だからと言って、勝者かどうかは知らない。このゲームには周囲の人を助けなければならないルールもなかった。でも、人生って、そんなものだから。」

確かに人生においては時折、自分が戦っているフィールドをイメージし、同時に繰り広げられている多重なゲームやそれぞれのルールに思いを馳せることが必要だろう。しかし、自分がどんなゲームを戦っているのかを認識することは難しいし、人生には明文化されていないどころか、ルールそのものが見えないゲームも多いから、この作業は簡単ではない。